早いもので1月もあっという間に終わり、今日から2月ですね。世間ではよく数字の語呂あわせで、1月は「行く」、2月は「逃げる」、3月は「去る」って言いますよね。
「年明けは、あっという間に過ぎてまうから、遊んどったらあかんで!」(関西弁)
そんな風に、子供のころ良く母親に怒られたのを思い出しますが、本当にうっかり生きてると後悔しそうなくらい、ものすごいスピードで毎日が過ぎ去っていくように日々感じています。
さて、今回は、「人生の転機と前兆」しかも「恋愛」がらみのことを書いて見たいと思います。お付き合いください。
人生の転機とその前兆
2月。この時期になると、ボクには必ず思い出すとてもとても印象深い出来事があるんですね。
その一連の出来事を、個人的には
炎のバレンタインデー・イヴ
なんて笑い話のように呼んでいるんですが、人生の転機というにふさわしい出来事を過去に体験したわけです。その前兆は足音もなく突然襲いかかってきて、すごいインパクトでボクを恐怖に陥れました。
もうすぐバレンタインデーですし、そのとっても個人的な体験談について語ってみようかと思います。
真っ赤に燃え上がる恋!劇的すぎるバレンタインデーの思い出
さて、このタイトルを見た時、あなたはどんな話を想像したでしょうか?
炎のバレンタインデー・・・なんかとっても情熱的な恋愛の話が待ってる感じがしませんか?もちろん、ワクワクドキドキの意外すぎるド派手な展開が待っています。もったいつけずに早速はじめましょうね。
それは、今から20年以上も昔の話になります。
1992年の2月13日。つまり、バレンタインデーの前日、”バレンタインデー・イヴ”に事件は起こりました。結論を急げば、実はその出来事がきっかけでボクは予期せず、殺人事件の「重要参考人」になってしまうのですが、その経緯を順を追ってお話していこうと思います。
え?重要参考人? しかも、殺人事件の!?
そう思ったかも知れません。
さらっと言いましたが本当の話。断っておきますが、これは嘘偽りなしの実話です。実際、この事件ではお亡くなりになった方もいるので、ブログに書いていいものかどうか逡巡しましたが、20年以上も経過していることもあり思い切って筆をとることにしました。
皆さんが普段、ネットやテレビ、新聞や雑誌で目にしても気に留めないほどの小さな新聞の記事になった事件です。
そんな小さな記事の余白には、実はこんな人間ドラマがあるのだということを知ってほしい。そんな思いが、今回の記事を書こうと思った動機なのかも知れません。ただデリケートな内容なので、記述には細心の注意を払いつつ、出来るだけ詳しくお話しようと思います。
あなたが毎日何気なく読み飛ばし、聞き逃しているニュースには、あなたの考えもしない人間ドラマが隠されていることを忘れないで欲しいと思います。
炎のバレンタインデーイヴ
事件は、1992年2月13日、東京X区で起こりました。
当時のボクは25歳。ボクらの世代は、当時世の中から「新人類」と呼ばれた浮わついた生意気世代。大学を卒業し映像業界で働き出して3年目のことでした。
テレビドラマのサード助監督(要は一番下っ端)や情報番組のADとして昼夜を問わず目の回りそうな忙しい毎日を過ごしていた頃のことです。
ん? ちょっと待ってね。
そうだな~。
この記事を読んでくれているあなたの年齢がわからないので、事件について詳しく話す前に、まずは「当時の世相」というか、今とはまるっきり違う”時代の空気感”を伝えておいた方がいいと思いました。
なので、まずは事件が起こる3年前の話から進めますね。
時計を1989年に巻き戻してみましょう。
平成という時代は、こんな状況から始まったんだよ
1989年1月7日。
マスコミが連日連夜にわたり報道していたとおり、かねてより体調を崩されていた昭和天皇が、この日崩御されました。
映画「64」でも使われている設定ですが、昭和64年はわずか7日間で終了し、時代は突如として新しい局面を迎えることになります。
元号が「昭和」から「平成」へと改められたのを皮切りに、それまで右肩上がりのプラス成長を続けていた日本経済は、この年に大きな劇的な変化の局面に巻き込まれていくのです。
それは同年の暮れのこと。
1989年12月の株式市場大納会の日に、なんと日経平均株価は38,915円87銭の史上最高値をつけたのち、その後、暴落。
いわゆる「バブル経済の崩壊」へと向かう序章が始まりました。
当時はワンレン・ボディコンの女性たちが、芝浦にあった伝説的なディスコ”ジュリアナ東京”に夜な夜な集結し、お立ち台でお尻と扇子をふりふり踊り狂ったマネー狂乱の時代でした。
※ワンレン=ワンレングス(髪のスタイル)※ボディコン=洋服のスタイル
過度な株価上昇や地価高騰が原因でバブル経済は弾けることになるのですが、そのイケイケドンドンの時代の終わりを告げる鐘の音が、「平成」という時代の幕開けと共に鳴り響いたわけです。
ただ「炎のバレンタインデーイヴ」の起こった1992年(平成4年)当時は、バブル経済が崩壊して数年が経っていたとはいえ、まだまだバブル期の過熱した空気が冷めやらぬ、どこか「浮かれた気分」を色濃く引きずっていた時代だと記憶しています。
言葉を変えていえば、世の中の大方の人たちがバブルが崩壊したにも拘らず、
日本経済は再び簡単に復活するさ!
そう心から信じているような、楽天的な雰囲気があったようにも思います。
実際、銀行の不良債権問題が表面化し、大手金融機関「山一證券の破綻」というショッキングな未曾有のニュースが私たちの耳に飛び込んでくるのは、まだ数年も先のこと。1997年まで待たねばなりません。
まだ、日本経済の凋落に誰も本気で対処しようとせず、お尻についた火の熱さをなんとか無視しようと務めていた時代。そんな時代の空気感の中、1992年2月13日(木)の夜、事件は突然起こります。
忍び寄る不吉な前兆
その日のボクは、夜7時ごろ最後の仕事を終えテレビ局を後にすると、翌日のデートのために知人に借りた車を運転して自宅を目指し、環状7号線を北へ北へと走っていました。
翌日は、待ちに待ったバレンタインデーです。
数ヶ月ぶりに大好きな彼女に会えるボクは、連日のハードワークで疲れはあるものの、いつもにも増してルンルン気分でハンドルを握っていました。
考えてみれば、まだ世間にはインターネットも携帯電話も存在せず、ポケットベル(ポケベル)が最先端ツールだった時代。
そんな時代背景の中で事件は起こったのです。明日のデートプランを色々と想像してニヤつきながら、ボクは無意識のうちにアクセルを踏み込んでしました。
浮かれて鼻歌を歌いながら運転するボクは、その時、もう既に「重大な事件に巻き込まれている」とは想像だにできませんでした。
翌日のバレンタインデーデートを想像しながら、にやけた顔で車を運転するボクの気持ちを代弁するかのように、カーラジオからは当時大ヒットしたKANの「愛は勝つ」という歌が流れていたのを今でもよく覚えています。
大きな声でその歌をKANに合わせて熱唱しつつ、ドラムの変わりにハンドルを叩いてリズムを取り、上機嫌で自宅へと車を走らせていました。
当時、ボクの借りていた家は、東京拘置所の見える川沿いの一角にありました。
常磐線と東武伊勢佐木線の走るその辺りは、東京23区の中では比較的家賃が安い穴場的スポットで、僕が借りていたのはアパートではなく一軒家。2階建て一軒家の1階部分に住んでいたのです。
もちろん2階には別の方が住んでいたのですが、それぞれの入口は別々になるよう設計改造してあるので、普段は滅多に顔を合わせることもないし快適な空間。下町にある木造モルタルの古い日本家屋が当時のボクの城でした。
夜の環七をぶっ飛ばし、ようやく家の近くまで辿りついた頃、僕はお金がもったいないのでコインパーキングには車を預けず、家近くの路肩に路上駐車しようと考えていました。
家へと続く一本道に入るためハンドルを切ると、
あらら!我が家へと続く一方通行の入口に警察官が立ち、赤色灯を持って車の迂回を誘導しているではありませんか。つまり、一方通行の道へ入っていけないのです。全く予想外の展開になりました。
なんやんねん、今日に限って。ツイてないな・・・
そう呟きながらも、どうにも仕方がないので一方通行の道から遠ざかるべくハンドルを切りながら考えました。
一方通行へ入って行けないってことは、家の近くに車を止めることが出来ないってこと。せっかく車で帰って来たのに面倒なことになったもんです。どこか良き場所に車を停め、家までは歩いて帰るしか方法はありません。
どこに停めたらええねん、ほんまムカつく・・・
お金も掛かるし腹立ち半分にそう思案している矢先のことでした。ふと、今しがた見た風景がフラッシュバックしたのです。
ん?・・・待てよ・・・
さっき赤色灯を振っていた警官の背後に、そう言えば「消防車らしき大型車」が停まっていなかっただろうか?ふと、そんな断片的な映像が頭をよぎったのです。
あれは、たしかに、消防車だったような気がする・・・
でも、何しろ暗い夜道でのことですし街灯があるわけでもないので、自分がハンドルを切りながらチラリと見た一瞬の記憶に確証が持てないわけです。でも、確かに、消防車がいたような気がするのです。
そう思った途端、なにか無性にそのことが気になり始めた僕は、再び同じ一方通行の道まで取って返し、今度は出来るだけゆっくりとハンドルを切りながら警察官の背後を観察することにしたのです。
で、再び、一方通行の入口に到着。
やはり少し前と全く変らぬ様子で、やる気なさそうな警察官は気だるげに車に迂回するよう赤色灯を振っています。そして彼の背後百メートルほど先には、やはり、大型の消防車が停まっていたのです。
良くないことが起きてる。そんな気がする・・・
昔からの言葉で「虫の知らせ」という言い回しがあります。
まさにそんな言葉がぴったりで、消防車の存在を目視した途端、急にいわれのない不安が押し寄せてきて胸がざわつき思いがけず動悸が激しくなり始めました。これから知ることになる事件の予兆を感じたのです。
なぜなのか、その理由はわかりません。
ただ考えてみれば、消防車の停まっていた位置が、ボクの家に「かなり近い」ということがわかったからかも知れません。落ち着かないまま運転していると、何だか嫌な想像ばかりが脳裏に次々と浮かんでくるのです。
当時のボクは、チェーンスモーカーでした。
一日に100本近い煙草を吸うような喫煙者でしたから、出掛けに吸った煙草の火の不始末から、自分では気づかぬ内に何か重大なことを起こしてしまったとしてもなんら不思議ではなかった。万が一、そのせいで僕の住んでいる家が火事になっていたとしたら・・・そう考えるとすごく怖くなったわけです。
おい、どうする、オレ・・・
が、その一方で、そんないわれのない不安を解決するアイデアが即座に浮かんだのは幸運でした。それは何か?
とにかく、自分の家へ電話してみればいい
これがその時、ボクが咄嗟に考えた状況打開の方法だったんです。なぜだかわかるでしょうか?
答えはこうです。
ボクの家には「留守番電話」があったから。それが理由なんです。
先ほどもお話したように、1992年当時は、携帯電話などない時代でした。
そのかわり家にある電話機に「留守番電話」が普及しており、若者たちはそれをコミュニケーション・ツールとして使っていたのです。気の効いた応答メッセージを自分の声で吹き込むのが、仲間内でも流行していた時代でした。
留守番電話は、プッシュ回線の電話からなら外出していてもメッセージ確認が可能だったので、ボクは早速、公衆電話ボックスを見つけると車を停め、自分の家に電話してみることにしたのです。
不吉な前兆を吹き飛ばせ!
もし想像しているような大事は起こらず、ただの取り越し苦労や杞憂なら、自分の家の留守番電話は正常に機能する筈です。
「ハ~イ、位部くんで~す。只今、留守にしてしま~す」
そんな自分の明るく元気な声が聞こえてくるのを期待して、プッシュボタンを押しました。
・・・・・
・・・・・
が、留守電は機能せず、応答メッセージはいつまでコールしても遂に聞こえてこなかった。そればかりか、その時の呼び出し音は、言葉では再現出来ないような今まで聞いたこともないような「世にも奇妙なコール音」でした。
あえて例えるなら、電話回線でインターネットが繋がり始めたばかりの頃の初期モデムが繋がる時に出したピロピロ音に近い、非常に耳障りな雑音。そんな心を掻きむしって不安にさせる呼び出し音が聞こえるばかりなのです。
これは、ヤバイかも知れない……。
直感がそう囁きました。
不安を取り除くために自宅へ電話を掛けた筈なのに、却って不安ばかりか焦燥感を助長する結果になってしまったのです。けど、根がチョー前向きなボクは、そこでもいやーな考えを無理やり打ち消して、頭の中でひとりボソボソとひとりごち始めました。
もちろん関西弁で。
たぶん「何か」嫌~なことが起こってんのは、、、うん、もう間違いない思う。
そやけどそれは、たぶん自分の家の、ものすごく、めちゃ近所での、何かわからんけど、その出来事が原因でこんな電話の音になってると思うねん。
うん。そう思う。そやで・・・そやから・・・
あ、そう!
なあ~んだ、そうなのか、ハハハハ・・・
自己催眠をかけるように努めて陽気に呟き続け、深く、深~く、深呼吸をひとつして、そして僕は決めました。
とりあえず、行ってみよう!
もはやこの段階では、歩いて家に向かい、今起こっている状況をつぶさにこの目で確認把握するしかない。楽天家を装って不安を取り除こうと無駄な精神努力をするよりも、何百倍も正確な現状把握が出来る唯一の方法が、それだったのです。
ボクは車を適当なコインパーキングへ乱暴に突っ込み、赤色灯警官の立つ一方通行の道へと歩き始めました。
自分の足なのに、なぜかふわふわと雲の上を歩いているかのような覚束ない足取りでした。
なんとも捉えどころのない感覚のまま、あいかわらず赤色灯を物憂げに回す警官の脇へやっと到着。すると思いがけず警官と目が合ってしまいました。
そう短く会話を交わすと、僕は警官の脇をすり抜け、恐る恐る一方通行の道を我が家へと歩いたのです。
神様、ヘルプ!
ちなみにボクの家は、その一方通行の先にあったんですが、何本かある脇道、そのうちの3本目の脇道を左折した先にありました。
自分の家へ向かっているだけなのに、まるで氷の上を下駄で歩くような危なっかしくてぎこちない歩き方だったのではないかと今では想像しますが、今となっては極度に緊張し、カチカチだったことしか覚えていません。
なにも悪いことはしてないのに、どうしてこんな気分にならないといけないんだ!そんな憤りさえ感じていたかも知れません。
明日は、バレンタインなんだぞ!!
そう何度も何度も心で呟いていたボクの視界には、消防車のハザードランプの点滅が見えます。
鼓動に比べてやたらその点滅速度が遅いとも感じていました。心臓の鼓動とのハザードランプのリズムのズレが、一層僕の不安を煽ってくるような気がします。
が、
なんと、朗報です。
ここまで勇気を持って歩いて来た自分を、マラソンランナーの有森裕子がレース後に語った言葉のように、自分で自分を褒めてやりたかった。
消防車は何と、一方通行の2本目の曲がり角に停まっているではありませんか!3本目ではなかったのです。
やはりさっき想像した推理は正しく、電話のコール音の件も、我が家のすぐ近所で不都合があったのだと確信したボクは大きく息を吐き、少し微笑みを取り戻せたのです。その結果、緊張の糸もほぐれ、視界もほどけ大きく広がったそのボクの視界に、
2本目の脇道に停車した消防車から伸びたホースは、なぜかボクの自宅に通じる3本目の路地に向かって、しゅるるるる・・・無情にもその方向に伸びているではありませんか!?
な、なんで……。
つい今しがた感じた心地よい安堵は、一瞬にして暗転しました。
もはや、ボクには、厳しい現実を直視する道しか残されていませんでした。
そしてボクの視界には、強烈なビジュアルが飛び込んできたのです。
前兆が人生の転機になる瞬間
複数の消防車と大勢の野次馬。
消火活動の作業員たちの怒号が飛び交う修羅場。
そして、火に包まれ派手に燃え上がっているのは紛れもない、我が家でした。
その光景を見た途端、ボクの思考は完全に停止してしまい、暫く惚けたように佇んだまま、火の粉と黒煙を巻き上げて豪勢に燃えている我が家を、ただぼんやりと見ているほかに何も出来ませんでした。
火事で我が家が燃えているという事実は確認できた。それは仕方ない。うん。きちんと受け止めよう。そう考えてはいたけれど、けど、そのことだけではすまなかった。事態は、僕が考えるよりもっと深刻でした。
なんとこの火事が原因で、2階に住む女性が命を落としたらしいのです。
その話を聞いた時には、正直、火事の事実をこの目で確認した時以上に大きなショックで、目が回りそうな思いがしました。なぜなら、いま目の前で起こっている火事の原因。それは、自分の煙草の火の不始末に違いないと完全に思い込んでいたからです。
ヘビースモーカーの僕は、こんなにも簡単に人の人生は激変してしまうものなのか、そう考えたし、一生取り返しのつかない後悔、そして人生を棒に振ってしまったという脱力感がないまぜになった、そんな目をしていたんだろうと思います。
どうしよう・・・これから・・・
明日が楽しみにしていたバレンタインデーだという事実すら、もう既に僕の頭には浮かんではきませんでした。