さて、火事の翌日に話を進めましょう。
何だかまだ昨夜起こったことが夢の出来事のような気持ちでしたが、新聞を手に取ると、確かに社会面に火事の記事が載っていました。
残念ながらその記事は残っていませんが、すんごくすんごく小さな記事で、一般の人はペロッと読み飛ばすくらいの小さな小さなボリュームの取るに足らない扱いの記事でした。
でも、確かにボクはその火事で住む場所を一瞬にして失い、また2階の住人の方は命を落としたわけです。
ボクがその時目にした記事には、2階の住人がなくなったとの記述もなかったし、ましてや、予期せぬ火事被害を受け家を失った善良な一市民のボクのことなんて、一行の記述もない。
僕にはそれが、すごく理不尽に感じました。
人生が、この一件で劇的な変化を余儀なくされたのに、記事には何も書かれてはいない。世間の人に伝えるべき情報の社会的価値はない扱いなのです。
考えてみれば、それは新聞に掲載されている他の小さな記事にも同じことが言える話で、当たり前のことかもしれません。
でも、火事事件の当事者になって初めて、普段は気にも留めない「記事の余白」というものの理不尽な存在を改めて認識することになったわけです。
少なくともドラマや映画の制作に関わる者のひとりとして、この事件でそういう目線が強烈に埋め込まれたような気がします。
さて、火事の翌日は、まず当時働いていた制作プロダクションへ電話を入れて事の顛末と事情を説明し、新しい家探しや火事の後始末をするため、暫く仕事を休ませてもらう許可を得ました。
この突然降りかかった災難を乗り越える方法はわからなかったけど、とにかく立ち止まっていては前に進めない。辛いけど頑張るしか方法はないわけです。
で、まずは昨晩の約束通り、所轄警察へ任意の聴取を受けに出向くことにしたのです。
理不尽な事の乗り越え方と意外すぎる展開
警察署に着くと、いわゆる「取調室」へと通されました。
刑事たちのいる大部屋に繋がる形で設置された四畳半程の小部屋で、窓はなく、くすんだクリーム色の壁に、今にも切れそうな暗く鈍い光の蛍光灯、スチールデスクに椅子が三脚ありました。
一方の壁には、なぜか灰色のスチールロッカーが設置してあり、誰のものなのか黒いコウモリ傘が一本とロッカーの上には薄汚れたダンボールが一個、ホコリをかぶっていました。
こういう細かいことを今でもはっきりと覚えているのは、もう職業病というしかないですね。
当時のボクは助監督でしたので、装飾美術品や衣裳、持ち道具などをチェックするのが日常の仕事でしたから、火事で家はなくなったとは言え、こうして実際の警察をつぶさに観察する機会をむしろ歓迎していた節がさえありました。
将来、監督になったら必ずこの経験を生かしてやる。そういう意識が強かったのかも知れませんし、
取り調べでは、本当にカツ丼が出るのか
ということも、言質を取って自分の目で確かめたかったわけです。
さて、取調室の椅子に腰掛けて待っていると、やがて二人の刑事が入ってくるのが見えました。断って起きますが、あくまで僕の場合は任意の出頭ですから、大部屋との戸は開けたままの状態で刑事は席に着きました。
一人は、鋭い目つきのやせぎす長身で、どこか「ハゲタカ」を思わせるような風貌。
もう一人は、穏やかな「タヌキ顔」には似合わないテカテカのオールバックに髪をしっかりと撫でつけ、鼻の脇にホクロのある小太りの男でしたが、ハゲタカよりも断然上質のグレーのダブルのスーツを着こなしていました。
二人とも四十代だったと思いますが、その風貌や身なりから想像したとおり、ハゲタカが所轄署所属の刑事。一方、ホクロ狸は本庁、つまり警視庁所属のキャリア警部補でした。
テレビドラマを作る場合、意外にこういう分かりやすいキャラクター設定は手垢がつき過ぎ、在り来たりで敬遠されると思いますが、ボクが実際に対面した刑事二人は、まさにセオリー通りのキャラクター設定でした。
事情の聴取は、ほとんどハゲタカがボクに質問をして議事進行し、ホクロ狸はあまり口を挟みませんでした。
ボク自身の仕事や日常生活についての質問で始まり、やがて火事のあった日の一日の行動についての質問になりました。
理不尽すぎる取り調べ室
取調べというのは結構疲れるもんです。頭がね。
なにしろ、相手が次々に質問してくることに全部応えなくてはならないから、意識してなかったことを思い出そうとしたり、時間を遡って記憶の糸を辿ったりするわけで、飲み屋で気の合う友達と喋っているのとは訳が違います。
そして長く濃密な質疑応答の時間経過と共に、ボクは何だか目の前の刑事二人に何かを疑われているような気分になってきたのです。
それには明確な理由がありました。
なぜなら、目の前のハゲタカは、ついさっき話したことを、時間をおいて何度も何度も、執拗に同じことを聞いてくるからです。
こんな風に、ボクにとっては答えるのも面倒な同じ質問を、ホントに何度も何度も繰り返し繰り返し刑事は聞いてくる。うんざりするし精神的に疲れてくるし、明らかにこちらを試すような『ねちっこい会話術』なわけです。
あとで聞いたところによると、この手の何度も同じことを繰り返し聞くというのは、取り調べの要諦で、尋問を受ける人間がウソをついている場合には、何度も同じ質問を繰り返すことで、発言に「小さな綻び」が現れるもんなんだそうです。
面倒くせえな、何度も何度も・・・
そう思う気持ちは、尋問される人間は誰しも感じる感情だと思います。
たとえ事前に警察のそのやり口がわかっていたとしても、何時間も殺風景な小さな部屋に閉じ込められ、同じ質問を繰り返し聞かれると、精神的にはかなり参ってくるワケです。
その時の僕の場合も、4、5時間も話に応じていたわけですから、面倒くせえ、早く帰りてー、と心から思っていたわけです。
カツ丼も出ねえしね。
そんな僕のうんざりした気持ちを態度で察したのか、今度は今までほとんど喋らなかったホクロ狸が、殊更にこやかにこう切り出しました。
このあたりの気配りというか、場の空気を読む力というか、ホクロ狸の人心掌握術というか、老獪さが、今らなら分かります。実際、その時のボクもコーヒーでブレイクできることをポジティブに受け取ったわけです。
カツ丼は出ないけど、うまいコーヒーでも、ま、いいや。
きっと奥の刑事たちの大部屋でドリップしたての熱々のコーヒーをサーブしてくれるんだろう。そう期待してみたのですが、その期待はすぐにぶち壊されました。
なんやねん!缶コーヒーかい!
この些細な意思疎通のすれ違いで完全にへそを曲げたボクは、もう猛烈に帰宅願望が騒ぎだして止められず、非常に不機嫌な表情をわざと作って、ホクロ狸にこう告げました。
新しいアパートだって探さなきゃならないし、仕事だって休んでるし、これからのことを準備しなきゃならないんです!!!
ボクが不平不満をあげつらい、思いつく感情のままに狸に噛み付いていると、奥の部屋から缶コーヒーを握りしめたハゲタカが、慌てた様子で帰って来ました。
そして、ホクロ狸に何事か耳打ちすると、僕に向き直ってこう言ったのです。
ボクの不機嫌さは充分に理解していたんでしょうが、それにも拘らずハゲタカの目つきは以前にも増して鋭く光り、手にしたポッカコーヒーを目の前に威圧するかのような音を立ててドン!と置きながら、僕にこう切り出したのです。
あれ、殺し、殺人事件だったわけよ!
へ?・・・へ?コロシ?
ボクは余りに予想外の展開に言葉が告げず、ハゲタカの威嚇するような目と恫喝にも聞こえる荒々しい言葉に良からぬ想像をしていました。
今日、何度も何度も昨日の行動を執拗に聞かれたボクは、実は「殺人事件の犯人候補」だったのではないか?
少なくとも検視結果が出る前から、警察は亡くなった女性の死因を「殺人」だと踏んでいたとすれば、この5時間にも及ぶ取り調べの意味がわかったような気がしたのです。
ボクは殺ってない!犯人じゃない!
そう叫んで言葉にしようとすればする程、目の前の刑事二人に更に疑われるような気がして、ボクは一言も言葉を発することが出来ず、黙って缶コーヒーを手に取りました。
缶コーヒーの温かさがボクの手を通じて教えてくれたこと。
それは、いまこの状況が夢ではなく、現実なのだということだけでした。
こうして、ボクは予期せず殺人事件の重要参考人になってしまったのです。